@redsignal5660

読み方ぐらい精査してほしい

@KazunariKawashima

「忍び」に近い情報収集家でコードネーム(伏せ名)みたいのが「猿」、正式に使えるまでは今川領や川並衆の情報を織田家に流していた、、、って感じの漫画があったな~

@船木祥啓

秀長秀次のレベルは庶民では無い

@イカフライ-s5j

木下弥右衛門の子だとすると7才の時に亡くなっているから、秀長は5才しか離れていないので胤違いとなると大政所が不義を働いたことになるんだよね・・・。
この時代は闇が深いよ。
秀吉はアミン大統領並みに前半生が不明が多い。

@redpython1000

荻中納言ではなくて萩中納言では?

@ダイスケ-i9n

私の記憶が確かなら、1543年に鉄砲伝来でその年に亡くなったのなら、その前に鉄砲足軽になるのは難しいと思う

@里信正通

秀吉は自分の出自が低い事を気にして何度も書換えてます
天皇の落し胤ってのもあったよね

@イカフライ-s5j

史上空前の成り上がりは明の朱元璋(朱重八)じゃない?

@sc-et8ip

秀長と旭は、種は弥右衛門であっても育てたのは竹阿弥だったから、周りからは竹阿弥の子だということになってたんでは?人情として「こいつ前夫の子供を育ててるぜ」とか言われてたらいたたまれないだろう。あと、実は竹阿弥は弥右衛門の出家後の名前、竹阿弥と弥右衛門は同一人物、という説も…

@ごんちゅうなごん

状況からの可能性があると言う程度の根拠としては乏しい説だけど織田一族である遠江木下氏説というのが個人的には気になってます。
・遠江木下氏は木下藤〇〇みたいに藤を持ちいる事が多く、
・秀長は秀吉と別口で織田家に仕えていた、
・一番最初に信頼できる同時代資料に登場するのが岐阜城で既に幹部クラスになっている。いくら織田家が能力主義が強いとは言え小物だった若者が幹部クラスになるのは難しいかと
教養面を見てもそこそこの家格だったと考える方が辻褄が合う。
ちなみに身分が卑しいと言うのも当時の価値観で言うなら信長ですら身分が卑しいからね

@sc-et8ip

播磨国三木城の別所村治(就治)の三男別所重宗が秀吉の父弥右衛門のいとこだったから、出身はともかく秀吉のルーツは播磨のはず。その過程で京都に滞在していた時期もあるから京都の公家の習慣にも通じてたのだろう。どうして誰もこの点に気付かない?

@takahal9191

茶番のセンスがね………

@Ig88-b7e

凄い人なのに松平の奴らw?による情報操作ww?で世間一般の評価がそんなに高くない気が…なんやかんや凄い事してんので私は好きな人物です。

@waveoff3150

太閤の諱が「秀」吉なのが違和感がある。普通に考えれば「信秀」の偏諱をもらっているが、織田家への仕官が1554年だとしたら1551年に病没した信秀からもらったことになり、大変違和感がある。普通先代当主の偏諱なんか簡単に新参者には与えないし。信秀存命中から織田家に仕えていたのでは?松下家に仕えていたのは、何等かの落ち度で織田家を追放され、一時的に世話になっていたとか(前田利家の逸話から、そのようなこともあり得たかも知れない)
また、以前から尾張の国の歴史にしばしば見られる「木下」の苗字を名乗っているのも違和感がある。元々苗字を持っていない者が、わざわざ近隣の有名な家の苗字を名乗る理由も分からない。元々それなりの身分(木下家の分家筋等)だったと考えたほうが違和感がない。