
竹中半兵衛|戦国最強の天才軍師。豊臣秀吉を天下統一へ導いた智将の生涯とは?!
竹中半兵衛の父・竹中重元は斎藤道山に仕えており、大御堂城の城主でした。彼は菩提山城を建設した後に亡くなり、半兵衛が家督を相続しました。半兵衛は斎藤義龍に仕えた後、息子の斎藤龍興に仕えることになります。龍興が家督を相続したことで、美濃国を狙っていた織田信長が侵攻。半兵衛は十面埋伏の陣で対抗し、見事退けることに成功します。この戦法は三国志の時代に曹操が袁紹軍に勝利した時に使った戦法です。
1564年、半兵衛はわずか16人ほどで稲葉山城を奇襲し、斎藤龍興を追い出すことに成功します。斎藤飛騨守はこれによって討死。のちに半兵衛は浅井長政のもとで隠棲生活を始めます。織田信長は稲葉山城を造営し直して岐阜城を建築しました。この頃から天下布武の印を使用しており、天下統一に向けて本格的に活動を始めます。織田信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に竹中半兵衛をスカウトに向かわせます。半兵衛は秀吉の三顧の礼に感動したそうです。三顧の礼とは三国志に出てくる有名な逸話で、劉備が諸葛孔明を迎える際に行った儀式のことです。
1570年、織田信長&徳川家康と浅井長政&朝倉義景の間で姉川の戦いが勃発。半兵衛は人脈を活かして調略活動を実施し、見事樋口直房&堀秀村を寝返らせることに成功しました。それにより、織田軍は勝利。その後も半兵衛は秀吉と共に横山城を守り、この頃から秀吉の与力となったとされております。
1575年、織田信長&徳川家康連合軍と武田勝頼が衝突。長篠の戦いの勃発です。半兵衛は武田軍の罠を見破り、秀吉の命を助けます。1577年、織田信長が中国攻めを開始。ここから織田軍に黒田官兵衛(黒田孝高)が加わります。彼はもともと播磨の小寺政職の家臣でしたが、姫路城を献上し秀吉の与力となったのです。二人は秀吉のもとで活躍し「両兵衛」と称されました。1577年、別所長治が離反したことで三木城を攻めます。この三木合戦は「三木の干殺し」とも呼ばれ、凄惨な兵糧攻めを実施しました。またその最中に荒木村重が離反。そこで黒田官兵衛が説得のために派遣されます。しかし、官兵衛がなかなか帰ってこないことに激怒した織田信長は官兵衛の息子・松寿丸の処刑を秀吉に命じます。官兵衛の裏切りはありえないと考えた半兵衛は松寿丸を見逃します。そんな半兵衛は三木合戦の最中、36歳の若さで亡くなりました。そして有岡城の戦い後、黒田官兵衛が土牢に幽閉されているのが発見され、半兵衛の考えが間違っていなかったことが証明されたのです。
織田信長と豊臣秀吉に重宝された天才軍師、竹中半兵衛の波乱な人生を一緒に振り返りましょう!
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