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豊臣秀吉|圧倒的強者。徳川家康が臣従した天下最強の智将

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豊臣秀吉は1537年に尾張の足軽・木下弥右衛門と仲(後の大政所)の間に生まれました。豊臣秀吉の出生については、豊臣秀次に仕えた小瀬甫庵が書いた「太閤記」に、イエス・キリストのような逸話が描かれております。15歳のころ、木下藤吉郎と名乗っていた秀吉は松下之綱に仕え、のちに織田信長の小者になります。「絵本太閤記」や「名将言行録」に書かれている草履を温めたエピソードは有名です。秀吉は浅野長勝の娘・ねねと結婚します。当初、ねねの母親・朝日殿が猛反対しましたが、ねねの兄・木下家定の協力で無事結婚しました。
他に有名な話が、一夜にして墨俣一夜城を築いたというものです。1566年、織田信長は美濃の斎藤氏を倒すため、稲葉山城を攻略しようとしていました。そこで、佐久間信盛や柴田勝家に築城を依頼しましたが上手くいきません。しかし、秀吉はわずか一日で完成させてしまったのです。
1570年の金ヶ崎の戦いでは、浅井長政の裏切りに対して、明智光秀と共に織田信長を守りました。1573年には、名前を「羽柴秀吉」に改め、1577年には信貴山城の戦いで信長を裏切った松永久秀を討伐しました。1577年、信長の命令で中国征伐を実施。三木城は干し殺し、鳥取城は渇え殺し、そして備中高松城は水攻めをおこないます。途中で荒木村重が謀反を起こし、黒田官兵衛が幽閉されますが、秀吉は次々と城を陥落させ、中国地方の諸国を平定していきました。1582年、本能寺の変が起きました。明智光秀が信長を自害に追い込んだのです。秀吉は光秀を討つため、「中国大返し」で急いで京都へ引き返し、山崎の戦いで光秀を倒しました。
「清洲会議」が開催され、丹羽長秀、池田恒興、柴田勝家、豊臣秀吉で信長の孫の三法師の名代、遺領の分配について議論しました。その後、柴田勝家と豊臣秀吉の対立は広がり、1583年に賤ヶ岳の戦いが勃発します。佐久間盛政の活躍により柴田軍が善戦しますが、豊臣軍の福島正則、加藤清正、片桐且元、加藤嘉明、脇坂安治、糟屋武則、平野長泰、桜井左吉、石河兵助によって佐久間は総崩れ。前田利家も戦線離脱し、柴田勝家は自害しました。
織田信雄は秀吉の脅威に反発し、徳川家康と組んで秀吉と戦います。「小牧・長久手の戦い」です。徳川軍4万に対して豊臣軍は12万と圧倒的に豊臣軍が数的優位でしたが、なんと徳川軍が勝利します。しかし、織田信雄が秀吉と勝手に和睦したことで徳川家康も止むを得ず和睦。結局、家康は秀吉に臣従することとなるのです。
秀吉は1592年に朝鮮に向けて兵を出します。これが「文禄の役」です。豊臣軍は快進撃を見せ、朝鮮のほぼ全土を制圧しますが、明が参戦したこともあり、講和を結ぶことにします。しかしこの講和が決裂し、1596年には2度目の朝鮮出兵、「慶長の役」が始まりました。奮闘しますが、ここで秀吉が病に伏せてしまいます。遺言の中で、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五大老に豊臣秀頼を助けるよう伝え、8月18日、秀吉はついに亡くなりました。
秀吉は大きな失敗を犯していました。それは、2度にわたる朝鮮出兵では、石田三成・小西行長ら文治派と、福島正則・加藤清正ら武断派が対立を深め、秀吉の家臣たちが分裂したこと。さらに朝鮮出兵に参加した西国の武将たちは、自費で遠征費用を出したため弱体化していきました。一方で、出兵しなかった東国の武将たちはどんどん力を蓄えていきます。この勢力図の変化は関ヶ原の戦いで決定的なものになりました。そして、ついに1614年・1615年に行われた大坂の陣で、家康は豊臣家を滅亡させました。秀頼と淀殿は自害に追い込まれ、家康が天下人となるのです。
人たらしの性格で貧しい身分から戦国ドリームを成し遂げた英雄の栄光と転落をぜひご覧ください!

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